十束と伏見が付き合い始めて約2週間が経過した。
メンバーには秘密にしているためバー内では今まで通りに過ごしているが、カウンターで話をする時は隣を座ったり、一緒にご飯を食べに行くなど、少しずつ2人の距離は縮まっていた。
伏見からすればそれは拍子抜けするほど穏やかなもので、だが不快感はない。元より人との接触を嫌う伏見にはちょうど良い距離感。
無論それは十束の配慮からくるものである。
彼には伏見がどこまでの接触を許すのか分かっていた。ずっと見ていたのだから。
できることなら今すぐにでも抱きしめてキスをしたい。その衝動をなんとか押さえつけ、十束は本当に少しずつ伏見に近づき、己への警戒心と猜疑心を取り除いていった。
その努力は徐々に効果を見せ、今では隣に座った時、誰もいなければ肩に寄りかかり身を寄せるまでになった。
十束はもちろん、伏見も自身の変化に驚いたが、少し顔を上げた先にあるなんとも嬉しそうな笑顔を見ると、まあいいかという気持ちになるのだ。

自分だけに与えられる柔らかい眼差しと優しく触れる暖かい手。抱きしめられた時に感じる溢れるほどの愛おしい気持ち。
それら全てが十束から与えられるもので、伏見が生きてきて初めて感じるものばかりで。
ああ、これが愛されるということなんだな、と伏見は実感した。
こんなにも心地よいものだと初めて知った。


月日は穏やかに流れ、それと共に2人の距離も近づいていく。
触れていた唇を離すと、十束のだらしない笑顔が見えて伏見は思わず吹き出しそうになった。
「なんて顔してるんすか」
「だってやっと伏見とキスできたし」
「別に、初めてじゃないでしょ」
「流れでするのと合意でするのは全然違うよ。てか、そんなにひどい顔してる?」
「すっごいアホヅラです」
「ひどい!」
耐えきれなくなり伏見が笑う。楽しそうなその笑顔は今までは絶対見られないもので、恐らく自分しか知らない。
例外として八田だけは見たことがあるかもしれないが、少なくとも今彼の笑顔を引き出したのは自分だ。そのことにとてつもない優越感を覚える。
溢れて収まりそうにない愛しさのまま、柔らかい黒髪に触れて顔を傾ける。
「伏見…もう一回しよ?」
甘えるような声音に伏見の頬が赤くなり、小さく頷いた。
優しく触れる唇は砂糖菓子のように甘くて気持ち良くて。もう絶対に手放せないなと、思った。






「十束さんと伏見って最近一緒にいること多いですよね?」
「はあ?」
鎌本の言葉に八田は眉をひそめる。
メンバーが既にたむろしているBar.HOMRA。
いつも通り馬鹿騒ぎする仲間達を眺めながら、そろそろ加わるかと考えていた矢先に言われた内容は直ぐには理解できなかった。
あまり馴染みがない組み合わせの名前だったからである。
十束多々良と伏見猿比古。それぞれ個人としてならとても馴染みがあるのだが。
「そうか?」
「え、八田さん気づいてないんすか?」
思うままの返事に鎌本が驚いた。
信じられない、とでも言うような態度に八田の機嫌は降下していく。
「なんだよ…そう言うお前はなんでそう思ったんだよ」
「いや、だって、ほら」
「あ?」
鎌本が指差す先に目を向けると、カウンター前の席に隣同士で座る件の2人の背中が見えた。
それだけで八田は驚いて声が出なくなる。
あの伏見がすぐ隣に人がいる状況を許しているという状況が信じられない。
八田の記憶では少なくとも席一つ分は空いていたはずだ。
自分という例外を除いて。

「嘘、だろ…」
無意識に口から言葉は零れた。
なんで、いつの間に。
疑問ばかりが頭の中をぐるぐる回る。隣で鎌本が何か言っているような気がしたが、今の八田の耳には入ってこなかった。
楽しそうに話す十束に時折相槌を打つ伏見からは常の人を拒否する空気は感じられない。そのことが更に八田を混乱させる。

なんで、だって、猿比古は俺の。
上手く纏まらない思考のまま2人を見つめていると、十束の手が動き伏見の額に触れた。そのまま長い前髪を掻き分け、現れた額に顔を近づける。
まさか、いや、そんなはず。
八田の懇願にも近い想いとは逆に、十束の唇はそのまま伏見の額に触れた。隣で鎌本が息を飲む。
だがそれ以上に信じられないのは伏見の反応だった。

八田の知る伏見なら、まず激怒して殴るかナイフを突きつけているはずだ。その目に怒りと拒絶、蔑みを加えて死にたいんですか等の暴言を吐くに違いない。
それが伏見猿比古という人間だ。
例外があるとすればそれはただ1人。八田において他ならない。
だが今それをしたのは八田ではない。伏見が馴染もうとしない己のチーム、吠舞羅の最弱幹部の十束多々良だ。
それなのに伏見は怒りも拒絶もしない。それどころか、頬を少し赤く染めている。

「、八田さん!?」
気づいた時には体が動いていた。
突然近づいてきた八田に伏見が驚く。その顔は今八田の存在に気づいたと言わんばかりで、怒りが込み上げる。
「美咲…?」
「ちょっと来いよ、猿比古」
「え?ちょ、なに、」
「八田」
戸惑う伏見の腕を掴み連れて行こうとする八田に凛とした声がかかる。
十束は立ち上がり八田と向き合った。常の彼からは感じない何かを感じて、思わず八田の動きも止まる。
まっすぐに八田を見据える十束の目には、静かだが確かな怒りがあった。
そのことに気づいた八田は困惑を隠せない。未だ嘗て見たことがない十束の目にたじろぐことしかできない。
「な、んすか…俺、猿に用事があるんすけど」
「その手を離して、八田」
「いや、でも、」
「離して」
恐い。いやそんなまさか。十束が恐いだなんて。
だがしかし、八田は確かに十束に恐怖を覚えていた。
十束が纏う怒りの空気がどんどん増すのが分かる。それが恐い。
無意識に後退しかけていた足に力を入れていると、十束が小さく溜息をついた。はっきり言わないとダメみたいだね、と近くにいた八田と伏見にしか聞こえない声音で呟いてから、顔をあげて再度八田を真正面に見据える。
冷汗が止まらない八田が思わず唾を飲み込んだ瞬間、十束は口を開いた。

「触れないで、って言ってるんだよ」
「………え」
「もう伏見は八田のじゃない。だから触れないで。他の誰が触れても嫌だけど、それでも八田が1番許せない」
唖然としたまま動けない八田に十束は更に言い募る。
「ずっと隣にいるのが当たり前で、伏見が苦しんでいることに気付こうともしなかった八田には、その権利はないよ」
「あ…お、れは…」
「伏見は俺のだから」
そこまで言って、十束は八田の手から伏見の手を奪いバーを出て行った。
残された八田は何も言い返せなかったことに気づく。
言い返す言葉すら思いつかず、己が失ってしまったものの大きさをやっと自覚した。
それは、途方もなく遅過ぎたのだが。






バーから出てずっと無言の十束に伏見は少しずつだが不安が募る。
何を言ったらいいのか分からず引かれるままに足を進めていたが、暫くしてからそれは止まった。
着いたのは小さな公園で、今は誰もいない。漸く振り向いた十束は申し訳なさそうに眉をひそめていた。
「ごめんね、いきなりあんなこと言って。暫くバーには行きにくいかもしれないけど、俺から草薙さんに話しておくから伏見は気にしないで」
「いえ…大丈夫、です」
十束と八田のやり取りはバー内にいた仲間達に見られていたが、草薙に任せればほとぼりも冷めるだろう。草薙にとってはいい迷惑かもしれないが。
「それとね、さっき八田に言ったことは俺の本心だから」
「ッ、あの…」
「俺はもう伏見を誰にも渡したくないし、渡すつもりはないよ」
まっすぐに見つめる十束の目は真剣そのもので、伏見は少しずつ頬が赤くなるのが分かった。
視線に耐えられなくなり俯こうとした伏見を、頬に手をあてることで防いだ十束は、先程までの瞳を暖かく柔らかいものに変える。
慈愛に満ちた瞳に見つめられ更に赤くなる伏見をかわいいなと思い、その心のままに口を開く。

「好きだよ」
「ッ…!」
「伏見が好きだ。大好きだよ」
「あ、あの……」
「どれだけ言っても足りない。好き……愛してる。この世界の誰よりも」
「と、つか、さん……もう…」
「…伏見は?」
これ以上は耐えきれない、と限界まで赤くなった顔を両手で隠そうとした伏見に、十束は小さく問いかけた。その声音に少しの不安が含まれていたことに気づいた伏見は恐る恐る顔を上げる。十束の顔には僅かな寂寥が浮かんでいた。

「俺も好き、です」
ほぼ無意識に伏見の口は動いていた。彼にそんな寂しい顔はしてほしくない。
途端に十束の顔が綻ぶ。
「やっと聞けた…ありがとう、伏見、大好き!」
込み上げる歓喜のままに伏見に抱きつき細い体を包む。伏見の気持ちはわかっていたが、今まできちんと聞いたことはなかった。
それが照れや羞恥心によるものなのも理解していたため、今まで敢えて聞くこともなかったが、やはり本人の口から聞くとこうも嬉しいものなのか。

「ずっと一緒にいようね、伏見」
「…はい」
頬を染めたまま小さく頷いた伏見が可愛くて、俺はそっと唇に顔を寄せる。
十束の愛を全身で感じながら、伏見は目を閉じて受け入れた。


END